マリ・キュリーは生涯をかけて放射線の研究に取り組み、2度のノーベル賞を受賞した科学者です。
放射線を浴びて研究を続けて大丈夫だったのでしょうか?
また、今もなお研究ノートが危険とはどうゆうことでしょうか?
・キュリー夫人は何を発見したの?
・キュリー夫人の研究ノートが今も危険ってホント?
・キュリー夫人の夫や娘はどんな人?
・キュリー夫人の年表を紹介
などに焦点を当ててご説明します。
キュリー夫人は何を発見したの?
1898年、キュリー夫人は夫のピエール・キュリーと一緒に「ポロニウム」と「ラジウム」という新しい2つの放射性元素を発見しました。
2人はこれをピッチブレンドという鉱石から取り出す作業を始めました。ポロニウムは比較的すぐに取り出せましたが、ラジウムは取り出すのに苦労しました。
大量のピッチブレンド鉱石(れきせいウラン鉱ともいい、ウランを含む主要鉱物の1つである。)を集め、連日のようにそれらをすりつぶして粉末にし、巨大な鍋で煮詰めました。
そして、ついに純粋なラジウムを取り出すことに成功したのです。
1903年、キュリー夫妻は放射線研究の功績が認められ、ノーベル物理賞を受賞しました。
ラジウムの使い道は?
治療として
以前はがんなどの放射線治療のために放射線源として使用されていたのですが、現在はコバルト60が使用されています。
時計の蛍光塗料として
1990年代以前は時計の文字盤や針などを暗い場所で発光させる夜光塗料として利用されていました。
当時、ラジウムは時計に手作業で塗られていたのですが、作業を行う女性労働者は放射能を持つラジウムの付いた筆をなめて穂先を整えていたため、
ラジウムが原因と思われる病気が多発し、時計の生産に関わる女性たちが次々に亡くなってしまったのです。
時計工場の女性労働者は訴訟を起こし、ラジウム・ガールズと呼ばれました。
キュリー夫人の研究ノートが100年以上も経った今も危険ってホント?
キュリー夫人の研究ノートは100年以上も経った現在でも放射線を出し続けているため、鉛の箱に入れてフランス国立図書館で保管されています。
フランス国立図書館ではキュリー夫人のノートを見ることができるのですが、免責同意書にサインした上で、防護服を着て慎重に取り扱う必要があるほどです。
当時は放射線が人体におよぼす危険は知られていませんでした。
キュリー夫人が自宅の研究室に保管していた物質の1つにラジウムがありますが、ラジウムの一般的な同素体の半減期は1,601年もあります。
何世紀にもわたって放射線の量が減らないということです。
キュリー夫人は被爆が原因で亡くなったの?
キュリー夫人は1932年に66歳で亡くなります。
病名は血液検査により再生不良性貧血と診断されました。
これは骨髄機能が損なわれている際に見られる症例で、やはり放射能が原因と疑われるものでした。
ラジウムが発見された当初は「身体にいい」放射能だと考えられていたのですが、しだいに健康に悪影響を与えることもわかってきて、キュリー夫人は研究所員たちに手袋での防護をするよう厳しく指導していたようです。
しかし当の本人は放射性物質を素手で扱う事が多く、防護対策を殆ど行わなかったのです。
そのため、キュリー夫人の手はやけどの跡だらけでした。
自宅の研究室の実験道具についた指紋からも放射線が検出されました。
キュリー夫人自身も放射能が検出される状態だったと思われます。
一緒に暮らしていた家族には影響はなかったのでしょうか?
キュリー夫人の夫はどんな人?
キュリー夫人の夫はピエール・キュリー、フランスの物理学者です。
すでに述べてあるように、マリー・キュリーと共に「ポロニウム」と「ラジウム」という新しい放射性元素を発見し、ノーベル物理学賞を受賞しています。
ピエールは持病のリウマチに悩まされ、その痛みから眠ることもできず、一晩中うめき続けることも多くなりました。
運命の日、ピエールは馬車の陰から通りに飛び出すような格好になり、ちょうどそこに荷馬車が走り込んできたのです。
1906年4月19日ピエール・キュリーは46歳、交通事故で亡くなります。
キュリー夫人の娘はどんな人?
キュリー夫人の長女
イレーヌ・ジョリオ=キュリーはフランスの原子物理学者です。
自宅の研究室は後年放射線が検出され、一緒に住み、大人になってからは母マリーの研究所に助手として入り、同じく放射線研究に力を注いだ人物です。
また、母マリーの助手だったフレデリック・ジョリオと結婚。1935年、夫と共に「人工放射性元素の研究」でノーベル化学賞を受賞しています。
このキュリー夫人の娘のイレーヌもやはり長年の放射線研究のため白血病で亡くなっていますが、59歳まで生きています。
キュリー夫人の次女
エーヴ・キュリーはフランスの芸術家、作家です。
幼いころからピアノを学び、パリでコンサートも行なっています。
母マリ・キュリーの伝記、1937年に出版された『キュリー夫人』は各国語に翻訳され、映画化もされています。
長女夫妻は研究面で母を支えましたが、次女のエーヴは母マリを生活面でサポートしました。
マリの晩年は彼女に付き添い、1934年にマリが亡くなった時も枕元で看取っています。
母マリが亡くなった後、1954年にヘンリー・リチャードソン・ラブイス・ジュニアと結婚。
夫もユニセフ事務局長時代の1965年にユニセフがノーベル平和賞を受賞するなどノーベル賞受賞者に囲まれた人生でした。
その後、夫が亡くなり102歳まで生きます。
父・母・姉夫婦・夫と家族でノーベル賞を受賞していないのは自分だけと語っていたようですが、そのことを苦にはしていなかったようです。
逆にキュリー家の女性たちの中で自分だけ独り身で長生きしたことについて、放射能に関わる人生から逃げたことによる罰だと感じていたといいます。
キュリー夫人においても実験から30年以上が経ってから、娘のイレーヌも実験から30年以上が経ってから亡くなっています。
現代では放射線の危険性は知られていますので、強い放射線を浴びながらも30年も普通に暮らせていたのは驚きですね。
キュリー夫人年表
1867年
11月7日、ポーランドのワルシャワにブワディスワフ・スクウォドフスキ、ブロニスワヴァ・ボグスカ・スクウォドフスカ夫婦の末娘(四女)として生まれる。生誕時の名前はマリア・サロメア・スクウォドフスカ。
1873年(6歳)
父ブワディスワフ、副視学官の職を失う。
1876年(9歳)
姉ゾフィアが腸チフスにかかり亡くなる。
1878年(11歳)
母ブロニスワヴァが肺結核が悪化し亡くなる。
ロシアの監督下にある女子中等学校に入学。
1883年(16歳)
女子中等学校を主席で卒業。その後一年間田舎の親戚宅で過ごす。
1885年(17歳)
家計を助けるため家庭教師として働き始める。
1891年(24歳)
パリ留学。パリ大学(ソルボンヌ大学)理学部に入学。以後、フランス風にマリと名乗る。
1893年(26歳)
物理学士号を取得。
1894年(27歳)
フランス人のピエール・キュリーと出会う。
数学士号を取得する。
1895年(28歳)
7月26日ピエール・キュリーと結婚。
1896年(29歳)
中・高等教育教授資格試験に合格。
1897年(30歳)
9月12日長女イレーヌが生まれる。
最初の論文「焼入鋼の磁性について」を発表。年末、博士論文のテーマにウラン化合物の研究を選ぶ。
1898年(31歳)
4月、ポロニウムを発見。7月、夫と連名で「ピッチブレンドに含まれる放射性を持つ新物質について」と題する論文を発表。
12月、新たな放射性元素の存在を予告、ラジウムと命名。論文「ピッチブレンドに含まれる、非常に強い放射性を持つ新物質について」を夫ピエール、ギュスターブ・ペモンとともに発表。
1899年(32歳)
ザンクト・ヨアヒムスタール鉱山から10トンのピッチブレンドを取得。実験室でラジウムの巣離に取りかかる。
1902年(35歳)
5月、父ブワディスワフ・スクウォドフスキが亡くなる。
7月、ラジウム塩、1デシグラムの単離の成功を発表。
1903年(36歳)
論文「放射性物質に関する研究」で、ソルボンヌ大学において物理学博士号を取得。
12月、ノーベル物理学賞受賞。夫ピエール、アンリ・ペクレルと共同受賞。
1904年(37歳)
次女エーヴが生まれる。
1905年(38歳)
夫ピエール、科学アカデミー会員に選ばれる。
1906年(39歳)
4月19日、夫ピエールが交通事故で亡くなる。
5月1日、夫ピエールの講座の後任としてソルボンヌ大学理学部物理学講師に就任。
1908年(41歳)
夫ピエールの後任として、ソルボンヌ大学の正教授に就任。
夫ピエールの論文をまとめた『ピエール・キュリー著作集』を編集、出版。
1910年(43歳)
『放射能概論』出版。
純粋金属ラジウム単離に成功。
放射線会議において、1グラムのラジウムが持つ放射能の単位として「キュリー」が定められる。
1911年(44歳)
10月、ベルギーのブリュッセルで行われた第一回ソルヴェイ会議に出席、アルベルト・アインシュタインらと親交を結ぶ。
11月、ノーベル化学賞受賞。
帰国後、腎臓病で倒れる。一年以上病気療養する。
1913年(46歳)
ワルシャワ放射能研究所の開所式に出席。
1914年(47歳)
パリのピエール・キュリー通りにラジウム研究所キュリー棟設立。
1922年(55歳)
第一回目の白内障手術を受ける。
1933年(66歳)
胆のうに結石が発見される。
1934年
長女イレーヌとその夫フレデリックが人工放射能を発見。
7月4日、長期間の放射線被曝による再生不良性貧血により66歳で亡くなる。
1935年
長女イレーヌとフレデリック・ジョリオ・キュリー夫妻がノーベル化学賞を共同受賞。
まとめ
ピエール・キュリーは、1905年のノーベル賞授賞式でこう述べています。
「悪の手に渡れば、ラジウムは非常に危険なものとなるでしょう。それを活用できるほど人類は成熟しているのか、その知識がかえって災いになることはないのかと自問しうるのです。」
ピエール・キュリーの不安は原爆の開発により的中してしまいます。
ピエールが感じていたように、人類にとって扱うには大きすぎる力となってしまったようです。
化学は諸刃の剣、扱う人の心によって善にも悪にも変わるということを感じずにはいられません。
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最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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