アインシュタインはどんな人?功績は?どんな子供だった?相対性理論を簡単に説明

アルベルト・アインシュタインは1922年に「光電効果」の論文でノーベル物理学賞を受賞した科学者です。

相対性理論は有名ですね。

また、年老いてからは核兵器の廃絶や科学技術の平和利用をうったえる活動に力を注いでいました。

・アインシュタインはどんな人?業績や功績は?

・アインシュタインはなぜ写真で舌を出しているの?

・相対性理論を簡単に説明

・アインシュタインはどんな子供だった?

・アインシュタイン年表は?

を中心にご説明します。


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アインシュタインはどんな人?業績や功績は?

相対性理論を生み出した天才科学者です。

アインシュタインはなぜ写真で舌を出してるの?

アッカンベーと舌を出した写真でも知られていますね。

しかし、アインシュタインは面白い人だったわけじゃありません。

あの写真は74歳の誕生日に撮られたものなのですが、

日頃より笑わないアインシュタインがカメラマンの声かけにより、つい笑ってしまいそうになったのを

隠すための表情だったそうです。

本人はとても気に入ったようで、何枚も焼き増しをお願いしたほどです。

相対性理論を簡単に説明

アインシュタインの発見した相対性理論は有名ですが、とても難しいお話です。

 

重力は力ではなく、「時空のゆがみ」によるということ、そして光は重力によって曲がるという結論を出しました。

1919年の皆既日食の観測で、地球にとどく太陽の光がゆがんでいたことで正しいことが証明されました。

 

簡単にその不思議な世界を説明しますね。

相対性理論の不思議な世界では光に近いスピードで動く物体がベースとなっています。

①光の速度で動く物体は進行方向の向きに短く見えます。

例えば動く物体をロケットだと仮定すると、光の速さで飛ぶロケットは短く見えるという説です。

ザックリした絵で恐縮ですが、左が通常のロケットだとすると、光の速さで飛んでいる状態では

右の絵のようにロケットが短く見えるということです。

 

②光の速度で動く物体の中では太ったように感じられます。

③光の速度で動く物体の中では時の進みが遅れます。

相対性理論ウラシマ効果とは?

この中で面白い説があります。

ウラシマ効果と呼ばれているもので、コトバンクから引用すると次のようなことをいいます。

光速度に近い速度で運動している系の時間の進み方は、静止している観測者に比べて遅くなる現象。たとえば光速度の99パーセントで進む宇宙船内の時計は静止系の約1/7の速さで進むため、宇宙旅行から帰ってくると地球上では約7倍の時間が流れている。名称はこの現象を浦島太郎の説話になぞらえたもの

 

昔話の「うらしま太郎」は本当は海の中ではなく、宇宙に光速で連れて行かれたんじゃないか?という話です。

 

そして、なんといっても竜宮城で3年しか経ってないのに、故郷に帰ったら300年経っていたという謎です。

 

これを相対性理論に当てはめると竜宮城は光速で飛んでいたことになります。

そうすると、助けたのは亀じゃなくてUFOってことになりますね。

 

これが本当か嘘かは置いておいて、相対性理論をざっくり理解するのにとても役立ちます。

 

アインシュタインと原発

アインシュタインは世界一美しいといわれる方程式を導き出しました。

それがE=mc²です。

この考え方からE(物質のもつエネルギー)=m(物質の質量)c(光の速度)²という方程式が導き出されました。

しかし、この方程式E=mc²は後にアメリカで原爆を発明する際のエネルギーの計算式として使われています。

また、ドイツが原子爆弾をつくることを恐れたアインシュタインはアメリカ大統領ルーズベルトにアメリカも原子爆弾の研究を始めるように勧める手紙を送りました。

しかし、実際の原爆開発には全く関わっていません。

むしろ平和主義だったアインシュタインは後悔し核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴え、亡くなるまで世界平和運動の先頭に立っていました。

アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞

アインシュタインは1922年に「光電効果」の論文でノーベル物理学賞を受賞しています。

「光電効果」は光が物質に当たるとその物質から電子が飛び出すという現象で、現在では光電管や光電池に使われています。

それまで光は波だと考えられてきましたが、アインシュタインによって粒子であると導き出されました。

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アインシュタインはどんな子供だった?

アルベルト・アインシュタインはユダヤ人の長男としてお金持ちの家庭に生まれました。

生まれた時に頭が大きく、変形していたので、両親は異常だと思い込みます。

医師がどんなに安心させようとしても、両親は心配し続けました。

また、3歳になるまで言葉がうまく話せませんでした。

 

 

しかしとても好奇心旺盛で、疑問に思うことは何でもすぐまわりの大人に聞く子供でした。

5歳の時にお父さんからもらった方位磁針を不思議に思い、興味を感じたことから考え事ばかりするようになったのです。

 

小学生の頃のアルベルトは問題だらけでした。質問に答える前に何時間も考えたり、暗記ができなかったのでのろまな子供だと思われていました。規則や命令を全く理解できなかったので、言うことをきかない子供だと思われていました。そのうえ、スポーツもぜんぜん興味がなかったので、同級生達と打ち解けず、変わり者扱いをされました。

しかし、数学は得意でした。

アルベルトの家には大勢の人が訪問しました。技術者のおじさんの話は興味深く、医学生のマックス・タルムードとは数学や科学について議論しました。9歳になるとひとりで生物学や化学や哲学の本を読みふけります。

その二年後、古代ギリシャの数学者が考え出したユークリッド幾何学がとても気に入ります。

さらに二年後にはカントの作品を読みます。ドイツの哲学者であり、その著書はとても難しいものです。それを13歳くらいには読んでいたとなると、驚きです。

15歳の時、両親はイタリアのミラノ近くに引っ越して新しい商売を始めます。しかし、アルベルトは高校に通っていたため、ひとりドイツに残ります。アルベルトにとって高校は楽しい場所ではありませんでした。先生からも良く思われていなかったこともあって高校を辞めてしまいました。

父親は高校を辞めてしまったことを喜ばず、技術者になるよう説得し、アルベルトはスイスのチューリッヒ工科大学を受験するのですが、試験に落ちてしまいます。数学は20点満点だったのに、ほかの科目は2点だったのです。

しかし、ひとりの教授がアルベルトに注目しスイス北部のアーラウにある学校で受験勉強を続けることを勧められます。彼がやりたいようにやらせてくれて、励ましてくれたのでその学校はアルベルトに合っていました。

そして、17歳でスイスのチューリッヒ工科大学に合格し、物理学を専攻します。

 

アインシュタイン年表

1879年

3月14日、ドイツのウルムで生まれる。

1880年(1歳)

一家でミュンヘンに引っ越す。

1884年(5歳)

いつも南北をさす磁気コンパスのことをふしぎに思い、自然科学に興味を持つようになる。

1885年(6歳)

小学校に入学する。

1888年(9歳)

ギムナジウムに入学する

1891年(12歳)

ユークリッドの幾何学の本に夢中になる。

1894年(15歳)

秋、父の事業がうまくいかなくなり、アルベルトを残して一家はイタリアのミラノに移る。

1895年(16歳)

年のはじめ、ギムナジウムを中退して、家族のもとへいく。

10月、スイス連邦工科大学の受験に失敗して、スイスのアーラウ州立ギムナジウムに入る。

1896年(17歳)

秋、スイス連邦工科大学に入学し、物理学を専攻する。

1900年(21歳)

秋、大学を卒業する。仕事が決まらず、臨時教師をしながら「毛管現象について」という最初の論文を書く。

1901年(22歳)

スイスの市民権をえる。

1902年(23歳)

ベルンで特許局の技官になる。

1903年(24歳)

ミレーバと結婚する。

1905年(26歳)

この年、特殊相対性理論について述べた論文など、重要な論文を次々に発表し、のちのアインシュタインの「奇跡の年」と呼ばれるようになる。

1907年(28歳)

11月、一般相対性理論を生み出すきっかけをつかむ。

1908年(29歳)

ベルン大学で物理学を教えるようになる。

1909年(30歳)

チューリッヒ大学の助教授になる。

1911年(32歳)

プラハ大学の教授になる。この年、「光の伝わり方に対する重力の影響」という論文を発表する。

1912年(33歳)

スイス連邦工科大学の教授になる。

1914年(35歳)

ベルリン大学の教授になる。

1916年(37歳)

このころ、一般相対性理論が完成する。

1917年(38歳)

胃と胆のうの病気になり、スイスなどで療養する。

1919年(40歳)

5月、皆既日食の観察がおこなわれ、光の進み方に関するアインシュタインの理論の正しさが証明される。

夏、ミレーバと離婚し、エルザと再婚する。

1922年(43歳)

11月、日本を訪れ、各地で講演をする。

12月、ノーベル物理学賞を受ける。

このころから平和運動にはげむようになる。

1925年(46歳)

「重力と電気の統一場理論」を発表する。

1928年(49歳)

心臓肥大という病気になり、療養する。

1929年(50歳)

「重力と電気の統一場理論」をさらに発展させた論文を発表する。

1930年(51歳)

アメリカのカリフォルニア工科大学の客員教授になる。

1933年(54歳)

10月、ドイツをのがれて、アメリカの高級科学研究所の会員になる。このあと、生涯をアメリカで過ごす。

1936年(57歳)

妻エルザが亡くなる。

1939年(60歳)

8月、ルーズベルト大統領に原爆の開発をすすめる手紙を書く。

1940年(61歳)

1月、アメリカの市民権をあたえられる。

4月、原爆開発のための委員会への招待を断る。

1949年(70歳)

大動脈瘤の手術を受ける。その後、しだいに体力がおとろえる。

11月、イスラエルの大統領になるよう頼まれるが、断る。

1955年(76歳)

4月11日、入院中に核兵器の廃止をめざす「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名する。

4月18日、プリンストンで亡くなる。

まとめ

いかがでしたか?

問題を解くことも大切ですが、偉大な科学者について調べてみるのも、より勉強が意味のあるものになるかもしれませんね。

疑問に思う、理由を調べてみる、何より一番大切なことは自ら知りたいと思う気持ちなのではないかと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

 

 

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